2019年10月25日
演題「教養としてのロボトミーQ&A」
演者: 聖マリアンナ医科大学 脳神経外科教授 田中雄一郎 先生
場所: ホテル横浜キャメロットジャパン
内容及び補足「(講演はQ&A形式でしたが、内容のみ記載しました)
ロボトミーは精神病の治療法の1つで、狭義では前頭葉白質切截術である。広義的には精神外科手術全般を指す。人類最悪の手術、呪われた手術と言われている。
脳の構成をする大きな単位である「葉(Lobe)」を一回に切除することを意味するLobectomy(葉切除)がロボトミーといわれるようになった。
ロボトミーは、ポルトガルの政治家、医者であるエガス・モニスが考案した。
彼は1925年に脳血管造影法を考案した。腰化ナトリウム溶液を患者の頸動脈から注入し、X線で観察すると不透明な影となって映し出した。
この血管造影の功績で二度ノーベル賞の候補に選ばれたが、いずれも落選している。
精神病は、古代ギリシャ・ローマ時代においては、1. 神の呪い、悪魔・悪霊によるものと考えられ、魔女狩りなど残酷な扱いうけるものと、2. 体質・身体的原因による病気と考えられ治療が行われた。
16世紀末から17世紀にかけてヨーロッパでは大規模な精神病者の収容施設(アサイラム)が作られ、精神病者は社会秩序を乱す人々として隔離・拘束する目的で使用された。当然施設内では自由を奪われた状態であった。
1793年フランスのフィリップ・ピネル、ジャン=バチスト・ピュッサンがビセートル病院の閉鎖病棟の患者の処遇を改善し、梗塞・鎖の排除を行い、作業療法を取り入れた。
1933年に統合失調症の治療としてインシュリンショック療法が開発された。
空腹時にインスリンを皮下注射し強制的に低血糖による昏睡を起こし、1時間後にグルコースを注射して覚醒させる治療法、クロルプロマジンが開発された1950年代以降はすたれたが中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦などでは1970年代まで行われていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Insulin_shock_therapy.jpg
1913年野口英世によって進行性麻痺患者から、梅毒の病原菌「スピロヘータ・パリーダ」の分離が成功し、進行性麻痺が脳の梅毒であることが確定された。スピロヘータは39度以上では死滅するので、ヴァーグナー・ヤウレッグが進行性麻痺患者に対して
マラリア発熱療法を創始した。
1938年イタリアのウーゴ・チェルレッティとルシオ・ビニにより統合失調症の治療法として
電気痙攣療法が創始された。
頭部に通電することで人為的にけいれん発作を誘発する治療法。
電気痙攣療法は、脳内でてんかん発作の電気活動を、起こしその効果を得る療法である。発作に伴って起こる全身の筋肉のけいれんは、患者の状態によっては血圧を上昇させ、骨折の危険を伴う。そのため、循環器に疾患のある患者や、高齢その他の理由で骨折する恐れがある患者には筋弛緩剤の投与、人工呼吸管理、循環動態の観察を行いながら通電する「無痙攣電気痙攣療法」が行われることもある。
現在は、リチウムや抗てんかん薬はけいれんを生じにくくするので中止、ベンゾジアゼピン系薬物も痙攣を生じにくくするので減量、抗うつ薬は術中不整脈を起こす危険があるので中止する。短時間麻酔剤の注射による入眠後筋弛緩剤が注射され、約30秒〜1分後に900mA、パルス幅0.25〜1.5msecのパルス電流を1〜8秒間コメカミまたは前額部などに通電する。繰り返し行うことにより痙攣派は生じにくくなり投与電気量を多くしなければならないことが多い。少数の患者は6セッション以下でも治療に反応するが大部分の患者は6〜12セッションの範囲で週に2回のペースで実施される。
ロボトミー手術誕生背景・変遷
1848年鉄道敷設の際、ゲイジは暴発事故で鉄の棒が頭に刺さった。その棒は彼の前頭葉を貫通したが、奇跡的に命を取り留めた。記憶はもとのままだったが、人格がすっかり変わってしまった。意地悪で攻撃的な性格になったのは、感情をコントロールする前頭葉の眼窩前頭皮質が損傷したからである。
エール大学の神経科学者ジョン・フェルトンが二匹のチンパンジーの眼窩前頭皮質切を除すると同様の結果が出ることに気付いた。手術により、床に排便したり、かんしゃくを起こしたりして、自分を制御できなくなったが、前頭葉を全部切断すると二匹のチンパンジーはおとなしくなり、リラックスして落ち着きを取り戻した。この結果を1935年ロンドンで開かれた第二回国際神経学会で発表した。重度の鬱や統合失調症の患者を治療していたモニスは、前頭皮質におけるシナプスの不具合で精神障害が起こるという仮説を立てていた。フルトンのチンパンジーの研究発表を聞いて、前頭葉と視床の連絡線維を切断すれば前投与と機能不全のシナプスは脳のほかの部分から完全に切り離されて、病態は改善すると考えた。
ロンドンの会議の4ヶ月後にモニスは初めて人にその手術を行った。
ただ、彼の手は痛風のため変形して手術が出来ず、助手にやらせた。
60歳の元売春婦の患者の頭蓋骨に二つの穴をあけ、アルコールを注入し、前頭葉から延びている神経線維を破壊した。患者の施行の混乱状態はなくなったが、感情をすべて失い、人間とはいえない状態になった。
その後数年かけてさらに19人の患者に手術を行い、最終的なルーコトームという道具を使ってどの神経線維を切断することが可能になった。すべての神経を切断しないと、望む結果が得られず、この手術方法をルーコトミー(前頭葉切除術)と名付け、1937年に発表した。
モニスのこのルーコトミーは、アメリカでは精神病院数と精神病患者数が1903年以来2倍に増加していたのでアメリカですぐに大人気となった。
神経学教授のウォルター・フリーマンと助手のジェームズ・ワッツは気分障害のあるカンザスの主婦にルーコトミーを行い、気分の変調は治癒し、記憶障害もなく、動作、人とのやり取りにも問題はなかったが、個性が消失し、ただ単に存在しているだけの状態になってしまった。
Dr Walter Freeman
Dr. James Watts
その後彼らは、技法を標準化し、標準ロボトミーと改称した。
1942年にロボトミーの本を出版し、広く広まり、第二次世界大戦後には、心的外傷後ストレス障害を持つ兵士が多数帰国したこともあり、ロボトミー手術件数は、年間100件から5000件に急増した。
見当障害、不眠症、不安神経症、恐怖症、幻覚症に対しても行われるようになった。
技法も改良され、瞼の下から改良されたルーコトームを木槌でたたいて前頭葉にまで打ち込み、その後にルーコトームを回転して、前頭葉を視床から切断する経眼窩式ロボトミーが広くおこなわれるようになった。
統合失調症の8歳の少年は、暴力的なふるまいのせいで地下室に閉じ込められていたが、手術前の左の写真から右の手術一年後危険な兆候が見有られなくなった。
1942年5月の左の写真の手術前には『神よ、僕は今にもブチ切れそうだ』と叫んでいたが1946年9月の右の写真の時には就職し、夜学に通うになった。
統合失調症の女性は、左の術前の状況から、右の術後1年経ったときには飼いならされたペットのようにおとなしくなった。
1945年6月緊張型統合失調症で2年以上にわたり定期的に電気ショック治療を受けていた左の写真と比べ、術後8日目の1948年11月には穏やかな表情となり、その後良好な状態が6か月時点まで続いている。
1940年11月手術前の時点では、仕事が見つからないことが不安となり、その状態が昂じてひどくなった為、手術が行われ、1940年12月の右の写真の時点では、仕事と心の安静が得られた。
1937年には、この治療法の弊害に気付く医師も現れ、大半の人が集中力の欠如、やる気喪失、人生に対する興味の喪失、創造性の喪失が出現していたが、問題行動が治療後に顕著に安定化することが高く評価され、1949年までは、この治療法が広くおこなわれ、この年モニスはノーベル医学賞を受賞した。
奇しくもこの年に、フランスの製薬会社がクロルプロマジンを開発し、精神科の治療法が大きく変わった。
https://logmi.jp/business/articles/107575
ロボトミー手術は、米国50000人(対人口比32)、日本30000人(37)、英国17000人(34)、デンマーク4500人(105)、スウェーデン4500人(64)、ノルウェイ2500(77)など、多数の人に対して行われている。
ある調査によるとトボトミー手術を受けた精神障害者の69%で精神病が改善、25%は変化がなく、2%で悪化、4%で死亡したとしている。
日本では1942年に新潟医科大学の
中田瑞穂が日本で初となるトボトミー手術を行った。
1947年
廣瀬貞夫が復員後松澤病院で4年足らずで約200件、日本全国で2000件さまざまなロボトミー手術が行われた。しかし、廣瀬は障害で
523例のロボトミー手術を行っている。
手術効果:
著効8%、良好11%、軽度改善27%、微力改善27%、不変20%、悪化4%、死亡3%であったとしている。
「くれぐれも慎重に」行うべきと主張し、ち密な症例観察を行っている。
「ロボトミーの効果の核心が人格の変化にあるとすると、その施術にあたって人道的立場からの是非が一応問題になると思う。此の手術について我々の実際的の感想を云うならば、術後相当の期間を経た後の印象では、少なく共人格変化の実際的な、社会的の価値はそれ程低くない様に思われる。実際、強迫神経症の極端に拘泥の激しい状態や、explosiveな精神病質の社会的に実害の大きい状態と比較して、術後相当の期間を経たロボトミーを受けた人の人格が、実際的の社会的価値として果たして低いと云えるであろうか。唯持って生まれた性格から、多少共被動的に離れると云うことは、主観的の問題として簡単には片付けられぬことと思うが、客観的に充分症例を選べば、術後の自覚症状として、自己の性格の変化をそれ程問題にせぬところからしても、人道的にも許されて良いと思う」(林・廣瀬[1949:30],西川[2010:142]に引用)。
1975年に日本精神神経学会が精神外科を「副作用に可逆性が無い」という趣旨で否決したため、ロボトミー手術は自主規制された。しかし、厚生労働省はロボトミー手術を禁止しておらず、保険適応となっている。裁判所の判例でも「精神障害に対する最後の手術」という趣旨で、トボトミー手術の違法性は指摘しておらず、現在でも合法的な治療法である。
2000年頃から精神外科は脳の研究や脳外科の技術が進んだこともあり、再評価されている。
1975年には精神病院で行われている非人道的な治療を告発する映画「カッコーの巣の上で(主演ジャック・ニコルソン)」がアメリカで上映され、1976年に第48回アカデミー賞の作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚色賞の腫瘍5部門を独占した。
腕白で手におえない
ハワード少年は、養母により12歳の時にロボトミー手術をうけさせられ、10代を精神病院、20代を拘置所、30代を酒場で過ごすことになった。54歳の時に
『ぼくの脳を返して』という書籍を出すことになった。
ハワード・ダリー (著)、チャールズ・フレミング (著)、解説 苫米地 英人 (監修, 監修)、 平林 祥 (翻訳)
ジョン・F・ケネディの妹である
ローズ・マリー・ケネディは知的障害児で18歳になっても小学4年生程度までの知識で、IQも60〜70といわれていた。政治家である父のジョセフ・P・ケネディは彼女を修道院へ入れたが、夜な夜な抜け出すために、脳外科医のジェームズ・ワッツに相談し、その頃大流行していたロボトミー手術を受けさせることにした。
ジョセフは妻や本人にも手術のことを教えず、勝手に同意書に署名した。1941年ウォルター・フリーマンの心理テストで「精神障害」と診断され、ロボトミー手術を受けることになった。術中意識があるローズ・マリー・ケネディに質問しながら前頭葉の切除範囲を決定し行ったが、結果はIQが低下し、2歳程度の知能指数となり、普通に歩くことも、普通にしゃべることもできなくなった。このことを父は秘匿していたが、ジョン・F・ケネディが第35代アメリカ大統領に就任した際に明らかになり、大きな非難を浴びることになった。その非難をかわすためか、精神障害者に対する福祉に力を入れ、1963年に「精神病および精神薄弱に関する大統領教書「ケネディ教書」を発表した。
ローズ・マリー・ケネディは人生の大半を障害者用の養護施設で過ごし、ロボトミー手術から63年後の2005年1月に86歳で自然死した。
ローズ・マリー・ケネディの妹であるユーニス・ケネディ・シュライバーは精神障害者に対する福祉に尽力し、1963年に精神障害者のスポーツ大会「スペシャルオリンピックス」を開催し、現在も続いている。
ロボトミー殺人事件
1979年9月、元スポーツライダーだった当時50歳のSが精神外科手術を受けたことで、妊芸性を奪われたとして、執刀医の殺害と自殺をもくろみ、医師の自宅に押し入り、医師の母親と妻を拘束し本人の帰宅を待ったが、帰宅しなかった、ため二人を殺害し、金品を奪って逃走した事件。
Sは家計を助けるためはたらきながら勉強し、正義感の強い真面目な青年として知られていた。20歳にして通訳となるも、親の看病のため帰郷し、土木作業員として働いた。関連会社に対して仕事上の不正を抗議した際に、出された口止め料を受け取った。会社はこの行為を恐喝行為として訴え刑務所に収監されることになる。出所後翻訳の仕事から海外スポーツライターとして活動を始め事務所も開いた。1964年3月妹夫婦と親の介護について口論となり、家具を壊した。駆けつけた警察官により逮捕され、精神鑑定にかけられ精神病質と鑑定され、精神科病院に措置入院となった。その際知り合った女性がロボトミー手術により人格が変わり自殺してしまったことに対して激怒して、執刀医に詰め寄った。このこういが危険だと判断され、ロボトミーの一種であるチングレクトミー手術を、不十分な説明を受けた母親が承諾書にサインをさせられ受けることになった。術後、感受性の鈍化や意欲減退などでまともな記事が書けなくなり、後遺症に悩み強盗事件を起こし、最後刑務所へ。出所後はフィリピンで通訳となるが反政府運動に巻き込まれ、日本に送還される。帰国後に「ロボトミー手術の問題点を世間に知らしめる」として犯行に及んだ。
裁判で精神鑑定を受け責任能力ありと判断されたが、脳内に手術用器具が残留しており、脳波に異常があることも明らかになった。ロボトミー手術の問題点を理解してもらうために無罪か死刑の判決を望んでいたが、無期懲役が1996年に最高裁で確定した。
手塚治虫
『快楽の座』:鬼頭教授がサルの脳内にスチモシーバーを植め込み、「よろこべ」、「歩け」、「食え」の命令に従った。そのサルたちを襲おうとしたライオンが鬼頭教授の「やめろ、おそうな」と命令するとピタッと止まり、「ねろ」の命令でコテンと寝てしまう。ヒトに応用するつもりであることをブラックジャックに話すと「人間にはきけんですよ」と忠告するも、「そんな心配をしていたら医学の進歩は難しい」と取り合わず、3-4年全然笑い顔を見せないトカゲをかわいがる三郎を連れてきた母親に対して、「はっきり鬱病体質ですよ。それは病気なのです。」と話す。
スチモシーバーを植め込み、根ピューと連結し、電波を三郎君の脳に送り、脳に作用して暗い心を消してしまうと説明され「よくわからないけれどそれが最良の方法なら」と手術をお願いする母親。
術後三郎は笑うようになったが、以前かわいがっていたトカゲを床に叩きつけて殺しても笑っており、勉強をするように話す母親の陰で漫画を読み、それがばれて母親に起こられるが、それでも笑い続けるようになった。
鬼頭教授の受診日に、この治療法を医学会に報告するとして背中を受けた瞬間に三郎は教授の背中をナイフで刺して逃亡する。そのことがニュースになって騒ぎとなり、コンピュータの破壊を勧められるが、鬼頭教授は破壊するとショックで三郎も死んでしまう設定で、コンピュータを操作できるのは鬼頭教授しかいないが、重症で操作困難である。
ブラックジャックが麻酔薬を打ち、スチモシーバーを摘出する手術を行い、救命できたが、それ以前の三郎に戻り、笑顔が消え、トカゲだけと遊んでいた。
最後に母親に対して、治療の処方箋として渡した紙に書かれていた内容は以下のものだった。
1. 三郎君に今後絶対に勉強を押し付けない
2. 三郎君を一日中子供部屋の中へ閉じ込めない
3. 三郎君に好きな趣味をさせる
4. 三郎君について無理強いをしない
少年チャンピオン1975年1月20日発売4号
1977年に「ロボトミーを美化」するとして障害者団体などが、手塚治虫と秋田書店を相手に抗議をした。ただ抗議を受けたのはこの作品ではなく、1977年1月1月号の『フィルムは二つあった』で内容は以下のものである。
ある映画監督が脳性まひの息子の成長記録をフィルムに取り続けていた。監督は脳性まひの治療場面をラストシーンにしたいと考えてブラックジャックに手術を依頼する。手術は成功するが、無免許医師が執刀する映画ということでクレームが入る。それを予測していたブラックジャックは、親友の意志のこの手術に立ち会わせていて、親友が手術しているように見えるもう一つのフィルムを用意していた。
抗議の内容は、当時『人間らしさを失う後遺症』や『人体実験である』と問題視されていたトボトミー手術で脳性麻痺が治ったとされる描き方が障害者にとって福音であるかのように美化していて差別を助長する・・・という理由からであった。
しかし、記載されている内容は『頭蓋骨切開(ロボトミー)は頭頂骨両側から行う』そして脳に電気刺激を与えるだけで脳の切除や切開は行っていない。
恐らく『頭蓋骨に穴をあける』という行為を『ロボトミー手術』と誤解していたと考えられる。
https://premium-goma.com/blackjack-kairakunoza/